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第10章 旧跡名勝(1)

寧波市は歴史と文化の名高い都市としてその歴史が悠久で、優れた人物が集まり、旧跡名勝も多い。これらの古跡は寧波の最も良い証拠で、また国内外の観光客にとって寧波は名勝を探るのに良い場所である。

寧波は山を背にし、海に面し、気候が温和で、景色が美しくて、その風景が山、水、寺、園を持ち、観賞できる自然の景観と人文の景観で、全市の至る所に分布している。ここ数年来、大規模な開発を通じて、至る所の名所旧跡は交通が便利になって、そのサービスの施設も最上で、伝統工芸品もたいへん豊かになった。

寧波は自然と人文的資源に富んでいて、山河がそれぞれの姿で美しく現れ、人をうっとりとさせるほどである。蒋氏故郷の渓口の雪竇山は国家級の名勝で、谷が奥深くて滝があり、岩壁が切り立つように聳えている。東銭湖は「西湖の風韻、太湖の気迫」と称えられている。古代の水利工程它山堰ダムは山紫水明で、阻海蓄河の働きを果たしている。松蘭山には金色の砂浜があり、海天の色が一緒に青く映されている。天明山の南渓温泉は透き通るようにきらきらと輝いている。鎮海海防遺址は雄大で壮観である。越窯遺址の青磁器文明は有名である。天童寺は仏教の五大聖地の二番目と数えられる。阿育王寺に釈迦牟尼の本当の舎利が珍蔵されている。保国寺の本堂は江南では、最古の木造建築として残されている。

天一閣

「寧波に来ても、天一閣に行かなければ、寧波を見学したことがないことに等しい」と言われている。天一閣は海曙区の月湖畔に位置して、中国に現存する最古の民間蔵書楼だけでなく、アジアでも現存している最古の図書館で、世界で最も古い三大私家図書館の一つでもある。1982 年に国務院より全国重点文物保護財と指定された。

天一閣は明代の兵部右侍郎範欽により、嘉靖四十年と四十五年(1561~1566年)の間に建てられた。範欽(1506~1585)は、字が尭卿、号が東明で、寧波鄞県の人で、明嘉靖十年科挙で進士に受かった。範欽は読書がとても好きで、中国の各地を回わり、心をこめて各種の書籍を収集していた。古書の中に書かれている「天一は水を生み、地六は之を成す」という言葉を利用して、「水を以って火を克す」と思い、蔵書楼を「天一閣」と名付けた。それに、天一閣の前方に防水用の貯水池を掘っておき、池のそこに、月湖に繋いで、一年中水が干上がらなくて、いざという時に近所の水を汲んで緊急措置を取ることができる。蔵書楼の上層部は仕切りのない大間で、「天一は水を生む」に合わせ、下層部は六つの部屋からなり、「地六は之を成す」に合わせるためである。

天一閣に古書は30数万巻蔵書されていて、その中に貴重な善本が8万巻で、「南国書城」という美称がある。蔵書のほとんどは明代の刻本と写本で、海外絶版も少なくない。その中の明代地方誌と進士登科録が明代の歴史を研究するのに、貴重な文献である。範欽の蔵書は17000巻しか残っていないが、その中の明代地方誌と進士登科録は、天一閣所蔵の最も豊富で顕著な特色を成している。現存している地方誌は271巻あり、その中の65%はすでに絶版となり、370 巻の進士登科録の 90%はこの天一閣にしか保存されていない孤本となっている。これらの書籍は、中国伝統文化を研究するのに、何より宝物である。

康煕四年、範欽の曾孫である範光文は天一閣の前にある池のそばに築山を建て、小橋もあずまやも増設し、周りに竹や木などを植え、石で「九獅一象の山」を作り、面積は小さいが、かなり精巧で、江南園林の特色をかなり備えている。その後、各地『四庫全書』を保存している文源、文淵、文津、文溯、文匯、文瀾、文宗などの七閣はすべて天一閣のデザインをまねて建築したので、天一閣は全国に名を馳せる。

1935 年、もとは尊経閣にあった歴代の石碑が天一閣の裏庭へ移されて、そこは「明州の碑林」と命名された。宋、元、明、清の石碑が80余点あり、その中で3つの「南宋日本滞在華僑の碑」が最も貴重で、それは今まで発見した南宋時代における明州港の最も早い文物で、国内に現存している最も早い華僑の文物である。

1994 年、寧波市は寧波博物館と天一閣文物保護所を合併して、天一閣博物館を創立した。天一閣博物館が目下もう蔵書文化、陳列展覧、庭園レジャーという三つの機能を持ち、悠久なる文化歴史を持つ名都市である寧波市の重要な標識の一つになって、寧波の歴史文化都市の姿を展示する窓口である。

天一閣の主な名所には東明草堂、宝書楼、尊経閣や碑林、千晋斎、秦氏支祠などがある。

白雲庄

寧波市の西部にある管江のほとりに位置して、明代末期、清代初期の有名な思想家、文学者、歴史学者である黄宗羲が講義をするところで、著名な歴史学者である全祖望に「甬上証人書院」と名付けられた。黄宗羲は字が太沖で、梨州先生と呼ばれていて、余姚市黄竹浦の人である。清代初期の浙東学派の代表人物として顧炎武、王夫之と一緒に明代末期、清代初期の「三大思想家」と称されている。彼は甬上証人書院を通じて浙東学派の各分野の傑出した人物を育成した。白雲庄はもとは、明代末期の戸部主事である万泰の宅であったが、その後彼の息子の万期選が『白雲集』という文集を著作して、死んだ後で、ここに埋葬したため、白雲庄と名付けられた。白雲庄は黄宗羲が講義をしていたところとして、かつて寧波の優れた文人が集まり、一時期大いに流行っていた。

白雲庄の主な建物は東向きで、すべてレンガと木材で建てられた平屋で、古風で優雅な風格を持っている場所となっている。南側は万氏の旧居で、「浙東学派」の主な人物の万斯同がかつてここに居住したことがある。北西側は万邦孚と万斯選のお墓である。万邦孚は万泰の父親で、左軍都督府僉事を担当していた。万斯選は万泰の五男で、同輩ではリーダー役で、黄宗羲は自ら彼に墓誌銘を書いた。

白雲庄は浙東の歴史学のシンボルとして、国内外に大きい影響を与えて、省クラスの重要文化保護財である。庄の中に「甬上証人書院」の以前の様子を維持していて、黄宗羲の生涯の略歴も陳列されている。

七塔禅寺

七塔禅寺は寧波市百丈路の中段にあり、寺院の前に七本の宝塔が建てられているため、その名声を得て、「七塔報恩禅寺」と呼ばれていて、名刹の普陀、天童、阿育王寺と一緒に四明四大寺院と称されている。国務院により、中国漢民族地域の仏教重点文化財と指定され、寧波市仏教協会もその中に設けられている。

歴史が悠久たる七塔寺は、今まですでに 1100 年以上の歴史を持ち、唐の大中十二年(西暦858年)に建てられ、「東津禅院」と呼ばれていて、その後名を「栖心寺」と「崇寿寺に変わった。明の洪武二十年(1387年)に、海上で不安定なため、朱元璋の部下の信国公湯和が、普陀山の僧と観音菩薩を寺の中まで迎えて、そして、観音聖像を大雄宝殿に移動して祭って、それを「補陀寺」と改名し、俗称が「南海普陀」である。寺院の前にある七本の宝塔は、清の康熙二十一年(1682 年)に建てられ、七尊の仏の意を表している。現世仏は釈迦牟尼仏であるが、過去仏には、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)がある。七塔寺という名前はそれで名付けられた。

寺の中にたくさんの貴重な文化財が保存されている。最も歴史の古いのは唐の咸通十四年(西暦873年)に皇帝の敕令により建築された鏡心禅師の遺骨舎利塔である。この塔は台座、塔体、てっぺんの3部分からなっている。台座は四方形で、塔体は丸い太鼓の形を呈していて、造型は厳粛で、スタイルが優美で、装飾が精致である。特にてっぺんの上の彫刻は細かく刻まれて、とても珍しい。その他、南宋嘉定十一年(l2l8 年)と慶元の年間に鋳造された銅の鐘が二つあり、明の木槎が一基、清の雍正十三年に刻まれた『蔵経』が一冊ある。清の嘉慶三年(l798 年)に作られた石刻の五百羅漢が大雄宝殿の左右と後ろの壁に嵌められている。彫刻した人物は堂々として、生き生きしている。精巧に彫り刻んで、スタイルもなめらかで、主体の人物を引き立てる風景はほどよくて、清の彫刻の中で逸品と言ってもいいであろう。

七塔寺の主な建築は天王殿、大雄宝殿、三聖殿、方丈殿、蔵経楼、慈蔭堂、玉仏閣、鐘鼓楼、念仏堂、東?西廂房などで、殿堂と楼閣の配置が合理的で、彫刻が精緻で美しくて、非常に壮観なものである。

城隍廟

市の中心にある県学街の東に位置し、全称は「寧波府の城隍廟」と言い、「郡廟」とも言う。五代後梁の貞明二年(西暦916 年)に建てられ、場所は「子城の南西の 50 歩のところ」で、すなわち今の鼓楼の南西のほうである。宋の嘉定九年(西暦1216年)に、程覃は朝廷に奏請らして、廟に「霊佑」の額を賜られた。参拝客が多いため、何度も火災に壊された。明の洪武四年(西暦 1371 年)にもう一回火に燃やされた時、郡府の張琪は城隍廟を「握蘭坊帝師殿の旧跡」に移り、すなわち県学街にある今の旧城隍廟の所に建て直された。当時の規模は大きくなかった。正統二年(西暦1437年)に知府の鄭珞は殿宇廊廡を修築して、正殿の南に軒柱を増加して、もっと立派に建て直された。清の光緒十年(西暦1884年)に城隍廟はまた再建され、今度の規模は以前の何回よりも大きく、頭門、次門、舞台、大殿と後殿があった。次門から主な建築までの両側に廂楼があり、舞台の天井はみんな金箔した斗拱と透かした彫り板を用いて、螺旋状に回り上がり、極めて精巧である。廟門の前の左右の拱門が廟と緊密に繋がり、真正面には照壁があり、そのあと、棋の竿が立てられている。廟の前に三組のうちわの形の門が並び、二つの石獅子もある。飛檐が聳え立ち、精細に彫刻され、全体の建築群は雄大で古風があり、立派で堂々としている。

城隍廟には昔、城隍の塑像と家畜神が供えられ、対聯に「天が知り、地が知り、汝が知り、吾が知り、何故知らないと言うのか。善報、悪報、遅報、早報、最後に報いがやってくる」と書いてあった。神秘で恐るべき、はらはらとしていた。城隍廟では毎日線香が立てられ、参拝客が絶えなかった。またおみくじを引く詩、放焔口という仏事、関牒(公文書)がある。廟の内外に、また文字の占い師、手相の占い師、冥土の紙銭を売る人、文書を歌う人、武書を語る人、善書を話す人、せりふを変わって歌う人、もろもろの職業をやっている人がここに集まった。飲食や夜店といったら、肉食麺類、ワンタン饅頭、随意一酌、果物やお菓子、何でもそろっている。正月と祝日、各舞台に同時にいろいろな芝居が公演され、提灯や色絹で飾り、すごく賑やかであった。城隍廟に行く人は、菩薩に礼拝する者のほか、更に多くのはにぎやかな所へ出かけて、軽食やおやつなどを買うためで、城隍廟はひっきりなしに往来して、盛況は一向衰えない。

清の順治二年(西暦1645年)の六月、ちょうど明は滅亡に向かっている時、清兵が大挙に南下した。民族的英雄である銭粛楽、張蒼水、董志は浙江省に入られないように清兵に抵抗して、廟で数千人を集めて武装蜂起した。民国の十六年(紀元1927年)に、老城隍廟の神仏像は叩き壊されて、菩薩の陳列されていない廟になった。抗日戦争の成功後、再び菩薩の神仏像を作った。

今の廟殿は1883年に建て直されたもので、様相が一新した。1995年に城隍廟は大規模に拡張され、新商城は古商城の質朴優雅な古風で、雄大で壮観な明清時代の建築風格を受け継ぎ、建築面積が延べ2万平方メートルとなった。廟の中に30余りの石碑と宋井などの古跡が保存されている。新建築と古建築の間にまた長さが108メートルで、広さが6メートルの徒歩の町もある。町に特色のある商店は29軒あり、城隍廟を大規模のマーケット、特色のある本場の店、美食城が一体にする有名な遊覧の場所となっている。本当に寧波民間の風情を飲み込む良い行く先である。

鼓楼

鼓楼は寧波市の唯一の古城楼の遺跡で、寧波市の中心公園路に位置している。唐の長慶元年(821年)に、明州(今の寧波)の刺史である韓察は州治を小渓から寧波の三江口へ移り、現在の中山公園から鼓楼までの一帯を中心にして、政府機関を創立し、城壁を築き、歴史上には「子城」と称され、鼓楼は子城の南の城門である。その後、望海軍門や奉国軍楼、奉国軍楼神祠などに改名されたことがある。元代の初めに壊されて、その後、再建したものを「明遠楼」と命名された。元代の末期、方国珍が軍を起こし、寧波を攻撃したとき、明遠楼はまた強火に焼却され、明の万暦年間、改修した時、「彩雲が海曙より出て、梅柳が江春を渡る。」の中の「海曙」を取り、「海曙楼」に改名した。海曙楼は清の時何度も改修されたことがある。清の咸豊五年(西暦 1855年)に建て直された際、階上に太鼓が置かれたため、俗称で「鼓楼」と名づけられた。清以降、建物の三階の真ん中にコンクリートと鉄筋の正方形展望台と警鐘台を造り、そして精密な時計も一台置き、四方から皆見えるようになり、つまり現在の鼓楼の姿である。

鼓楼は南宋の時、かつて宋高宗に「奉国軍楼神祠」と封じられた。『鄞県志』によると、当時鼓楼の中に唐の天宝年間、安禄山の反乱に抵抗し、高邱を死ぬまで守った殉難した張巡や許遠など五人の神像が祭られていた。宋高宗の趙構は金兵に追いかけられ、古楼に登り、災難を避けたのは、五人将軍の護衛の功労であると思ったので、「五大将軍の肖像を天楼をもって祭られ、奉国軍楼神祠」と称された。

鼓楼は三階の木制の建築で、雄大で古めかしい。壁はレンガ造りで、下部は大型の長方形の石で基礎をしっかり作られ、高さが8メートル、中間に南北の向き門を支える穴があり、幅が6メートル。海曙楼に登り、諸景がはっきり見え、寧波市の中心部にある奇観である。

天封塔

天封塔は寧波市の大沙泥街に位置して、寧波市の城隍廟に近い。唐?武則天の「天冊万歳」と「万歳登封」(西暦紀元695~696)の時に建てられたがゆえに、「天封」と言われた。当時寧波城は船のように奉化江と余姚江の間で揺れ、何度も水没されたそうである。その後、城の中央でこの塔が建てられ、まるで一本のマストのようである。そのおかげで、水害がなくなった。天封塔は高さが54.5メートルで、六角形をしている。7階が見えて、7階が隠れ、そして地下の4階を加え、18階がある。それで、「天封塔、十八階あり、人の子はスリになり、我が子はスリにならない」という諺が伝えられた。記録によると、天封塔を建てるために、泥が幾重に積み上げられ、そしてレンガが塔頂まで運ばれ、塔が建てられてから泥を運んだ。大量の泥がその近くに積もっていたから、今でも、その近くの道を「大沙泥街」「小沙泥街」と言われている。この工事の難しさと壮大さは想像できる。当時、塔に登って眺めると、雲いっぱい、広い野原が目に映り、三つの川が三匹の蛟のように東城で合流し、くねくねと続いて招宝山を経て海に入るのが見える。

天封塔は古代の寧波市のシンポルとして、盛名を馳せている。この塔のもう一つの用途は狼煙台として使われるそうである。天封塔は寧波市の東郷小白嶺にある鎮蟒塔と同じく唐代の塔である。二つの塔は遥かに向かい合って、もし侵略或いは戦争があったら、烽火をあげ、四方の駐屯軍を集めることができた。平和な時期は、塔頂に灯火をあげ、水陸の要路を指示する。天封塔が郡の安否と繋がっているため、人々はこの塔を宝塔としている。このために、宝塔には不慮の災難を被らせた。南宋の建炎3年(西暦紀元1129年)12月、南下する金兵は康王を追跡した時、戦争に負け、そして離れた時に「城を燃やせ」という命令を下ろした。天封塔は焼き払われた。宋の「正覚」という高僧は八方の寄付金を集め、やっと宋の紹興14年(紀元1144年)に天封塔を修復した。立て直された天封塔は前よりいっそう壮観なものである。

天封塔は千年の古塔として、風雪に耐え、また何度も戦争の災難に覆われ、何回も建て直された。解放後、人民政府はたくさんの措置をとって、天封塔を保護したが、塔が傾いたことで、建て替えることになった。1982 年、土台を片付ける時、150余点の骨董が地宮内に発見された。その中に、1144年に建てられた銀質の天封塔の地宮殿があった。この宮殿には南京14年の前書きが刻んで、および銀質の香炉、元版の「大乘妙法蓮花経」、古紙幣、石匣、仏像などがあった。これは天封塔の再建、南宋の紹興時期にある江南の切妻殿堂に実物の模型を提供した。

天封塔は古代の寧波の一番高い建物として盛名を馳せている。歴代の有名人が必ずここに来て、多くの詩を残した。明代の詩人李堂は「瑶空露玉簪,試脚上危尖。日近光揺幌,嵐清翠入檐。天風涼颯颯花雨晩繊繊。笑指雲霄逼,星晨手可拈。」と書いた。今のこの塔は宋代の建築様式に倣い、もとの所で再建されたのである。そんなに美しい天封塔は、今の寧波に新しい風采を与えた。

咸通塔

咸通塔は寧波市中山西路庄家巷口に位置し、唐の咸通4年(紀元863年)に建てられ、今まで1100年余り前の建築である。

咸通塔はまた天寧寺塔ともいう。天寧寺は国寧寺ともいい、唐の大中5年(紀元851年)に建てられ、とても壮大であった。それから何度も名前を変えたが、民国の初めまで天寧寺に変えた。天寧寺の前に二つの塔が左右に建てられたが、左の塔がすでに清の光緒のときに壊れ、右の塔は咸通塔である。その塔の右側に「咸通4年に建てられた」という銘文があるから、「咸通塔」と言われた。また塔の身が小さくて、亀のように見えるから、「亀塔」とも言う。解放の初め、天寧寺は壊され、たくさんの寺院の古跡はすっかりなくなり、古塔であるけ残った。咸通塔はレンガで建てられ、平面が四角形をしている。どん底の辺長は3.2メートルで、面積は10平方メートル余りである。塔頂の刹はもうなくなり、全塔は約12メートルである。塔内は四角形をしていて、塔頂は弓形をしている。塔の身はであるいたいまっすぐで、明らかに傾く傾向がないが、ひどく風化された。この塔が五階ある。どん底は少し高くて扉があり、上を登れば登るほど塔の身が小さくなる。毎階の壁には、仏像を祭る床の間があり、まわりにレンガで積み重ね、軒を出し、その密度は0.7メートルぐらいある。塔の身は古風で、柱も枋も斗拱もなくて、階ごとにひさしを覆い、唐の軒式煉瓦塔の特徴を持っている。わが国の長江以南では現在まで完璧に保存された唐の唯一の密檐式磚塔である。

咸通塔は江南の古城明州(寧波)の環境、唐のレンガ構造建築の技術、レンガの製造技術、そして宗教の歴史と唐の寺の規模の研究に大切な価値を持っている。また、江南の唐塔の荘重さ、含蓄さを体現した。これは唐の明州人の理性の精神と美学への追求のシンポルであると言えよう。

月湖

月湖は寧波市内の南西に位置し、昔は「西湖」という。寧波の南駅から歩いて数百歩で至る。この湖は細長くて、面積は 0.2 平方キロメートルある。月湖は曲がりくねり、丸い所は満月のようで、曲がる所は細い新月のように見える。昔、北湖の東の近くに「日湖」という湖があった。それは「明」の字から「日湖」と「月湖」を名付けたのである。しかし、日湖はもうなくなり、月湖であるけ残ってきた。月湖は唐太宗の貞観10年(紀元636年)に鄮県の長官である王君照に浚われたのである。北宋の哲宗元佑 8 年(紀元1093年)に明州の太守である劉渉は大規模に湖を浚い、周りに松と柳を植え、その土で10個の島を作った。南宋の紹興年間(紀元1131~1162年)に太守の劉珵はまた楼閣を作り、四季の花を植え集め、10箇所の景勝地を作り上げた。東の3ヵ所は「菊花洲」「月島」「竹嶼」で、西の3ヵ所は「芙蓉洲」「雪汀」「煙嶼」で、真ん中の4箇所は「芳草洲」「柳汀」「花嶼」「竹洲」である。宋?嘉佑と明?万歴の時にまた3つの土手と7つの橋が造られた。偃月堤は湖の北に、広生堤は湖の中に、桃花堤は湖の南に造られている。7 つの橋は「花嶼」と「煙嶼」との間の湖心西橋、「花嶼」と「月島」との間の湖心東橋、「柳汀」と「煙嶼」との間の憧憧西橋、「柳汀」と「菊花洲」との間の憧憧東橋、「雪汀」と「芙蓉洲」との間の虹橋、「芙蓉洲」と月湖の北浜との間の袞繍橋、「菊花洲」と月湖の北浜との間の四明橋であった。今、その一部は崩されて道路になった。

月湖は文人の集まるところである。唐の有名な詩人である賀知章は退官して月湖に住んだそうである。彼は「四明の狂客」と自称し、才気あふれ、とても人気があり、今も湖汀浜に「賀秘監祠」が残っている。宋の王安石が鄞県の知事をしていた時、湖の西に「西亭」を作り、人々に「荊公読書台」と言われた。南宋の両朝宰相である史浩が竹洲で「真隠館」を造った。宋孝宗は自筆の「四明洞天」を書いて送ってあげた。当時、たくさん有名な学者もここで講演をした。その後、清の有名な史学者である全祖望もまたここで「竹洲三先生書院」を設けた。その後、明州の文風がいっそう盛んになり、数百年も続いてきた。

慶安会館

慶安会館は「後天宮」ともいう。奉化江、甬江、余姚江の合流する「三江口」の東岸に位置する。沿岸は古代の波止場で、省クラスの重要文化財である。この会館は清の道光30年(紀元1850年)から建て始まり、咸豊3年(紀元1853年)に竣工したのである。慶安会館は寧波の北洋船商に寄付して建てられ、北洋船商の連絡場所である。船商は「天後神」を信じるため、会館は実際に祭祀の宮殿となり、「甬東天後宮」ともいう。慶安会館はわが国の八大天後宮と七大会館の一つで、江南では現存する、天後宮と会館を融合した唯一の古建築群で、中国の宮館合一の手本で、海上の「シルクロード」の重要な構成部分である。2001年6月、慶安会館は国務院によって、五回目に公表された全国の重要文化財である。今は全国初めての海事民俗博物館に改築された。館内には今でも董沛の「甬東天後宮碑」という石刻が保存されている。

天後は、また天妃、天上の聖母ともいい、世間は媽祖といい、中国沿海地方の庶民の海神である。寧波は媽祖信仰と長くつながっている。北宋の時代に、媽祖信仰は寧波から全国へ広まり、中華民族の航行の守り神となった。慶安会館は媽祖信仰の儀式と内容を保存し、浙江省の東部更に江南地域では最も重要な媽祖廟である。毎年旧暦3月23日の媽祖の誕生日と9月9日の昇天日に、盛大な儀式が行われ、天後を祭る。それは寧波ではかつて見たことがない壮観な祭りである。

会館は西に向き、面積は約8000平方メートルである。中軸に沿って、扉、儀門、前戯台、大殿、後戯台、後殿、前後庇などがある。会館は中国古代建築の精華を伝承し、寧波の伝統的な装飾を採用し、広大で、精巧で、まばゆく輝いて美しい。そして、その中のレンガの彫刻、石の彫刻と朱金の木彫りは地域の鮮明な伝統的な技術を体現し、高い審美の価値を持っている。

会館の舞台の天井は、木彫り板でつながる。表門のアーチと館内の壁にはレンガ彫りがあり、人物と山水花鳥は生き生きとして、彫刻はきめ細かくなめらかである。

慶安会館の最もすばらしいのは石の彫刻である。主体の広間は10メートルである。母屋には竜の柱、庇には鳳凰牡丹の柱があり、高さは4メートル余りある。竜の柱は青石で彫られた。2匹の竜は牙をむき、爪を振るい、いきいきとしている。竜の柱と向かっている鳳凰柱は中空刻みで、そして両側の壁にレリーフがあり、内容は「西湖の10景」と「玉泉魚躍」で、とても細かく滑らかである。これらの石刻は、清朝の彫刻芸術を研究するのに役立つ。

天後宮の前後にそれぞれ媽祖を祭る舞台と業界の集う舞台があり、これが国内にはめったにないことである。

銭業会館

銭業会館は省クラスの重要文化財で、市内の「戦船街」に位置する。銭業会館は1925年に建てられ、面積は1500平方メートル余りである。前後三軒の屋敷、亭と楼閣と庭園から構成され、中国と西洋式の、煉瓦と木造の二階建である。中には金融業の発展の概況と建築の経緯を記述する碑がある。その周りの環境もいいし、交通も便利である。

銭業会館は寧波の金融業の発展の産物で、寧波の各金融機関の集まる場所である。「鄞県通志」によって、当時の寧波の金融はずっと銭荘を中枢としている。最も繁盛した時に、同業が数千軒に達し、勢力は上海に劣らない。寧波の銭荘はまた現金を使わず支払うことを創始し、「帳簿制」を採用した。銭業会館は金融業の発展を研究するのに役立つ。

天童禅寺

天童禅寺は寧波市東部の太白山のすそに位置し、市街地から 25 キロメートル離れている。西晋元康元年(紀元 300年)に建てられ、1700余りの歴史を持っている。天童禅寺は「東南の仏国」と称し、世界で禅宗十寺の一つだと思われる。

言い伝えによれば、西晋永康元年、宗派の創始者とされる義興は鄞県東谷まで観光した。そこの景色を好むため、そこで寺を建て、倦まずたゆまずに経文を読んで修行していた。天帝が感動し、太白金星を童子に変身させて義興に付き添った。それゆえ、天童山は太白山とも名乗る。

唐開元20年(紀元732年)、法璇僧は太白山の谷間で「太白精舎」を再建し、現代人に「古天童」と称される。唐至徳二年(757 年)、僧の宗弼、県聡などは「太白精舎」を太白山の麓に移した。時代の変遷により、今の天童禅寺になった。唐会昌元年(841 年)鏡禅師が寺の事務を管理していた間、「鎮蟒塔」を建て、寺の面積および影響を拡大し、宋代に禅宗五寺の一つだと思われた。明洪武十五年(1382年)、「天童禅寺」という寺名をつけ、「中華禅寺第二名山」と見なされた。それは清代に鎮江の金山寺、常州の天寧寺、揚州の高雯寺と禅宗四寺であると言われた。しかし、建立した後何度か壊されたことがある。崇禎四年(1631 年)建て直され、仏殿、天王殿、仏堂、先覚堂、僧侶の部屋などが999軒築き上げた。明代の万歴十五年(1587年)7月21日、鄞県にはひどい水害が発生し、天童禅寺の建築物が全部洪水で破損された。その年の冬、住職の因懐はもとの場所で寺を築いた。その後でも戦火を経験して保存された。現存の730軒の家屋は面積が5.8万平方メートル、元のままに明朝のスタイルを維持している。

建築は全部階段のように位置される。南から北までそれぞれ外万工池、七塔苑、内万工池、照壁、天王殿、仏殿、仏堂(経楼)、先覚堂、羅漢堂、、鐘楼、御書楼があり、瓦葺の切妻屋根で、動物の絵が飾られている。仏殿の前の石碑に清?順治帝が書いた「敬仏」が残っている。また、康煕帝の書いた「名香清梵」と雍正帝の書いた「慈雲密布」という額も掛かっている。そして、境内に宋、元、明、清時代の碑は30基余りある。

天童寺は仏教の臨済宗が修行する重要な寺ばかりでなく(臨済宗の本山は杭州径山にある)、日本の曹洞宗の本山である。それゆえ、中日仏教文化交流の歴史に重要な役割を演じていた。南宋の時代、日本京都の建仁寺の僧侶道元は浙江省の各地を遊歴した後、寧波の天童寺で如浄禅師に曹洞宗を学び、日本に帰ると、永平寺を建て、日本で曹洞宗を創始した。

阿育王寺

阿育王寺は建築規模が大きく、8万平方メートルの面積で殿堂、楼閣など600軒ある。建築面積は合わせて 14000 平方メートルである。絵画、建築、彫刻、庭園、文物と風景をとけ合う観光名所と見なされる。寺は山沿いに建立され、建築物は中軸を中心に建てられている。正門から次第に二山門、阿耨達池、天王殿、仏殿、舎利殿、仏堂と経楼がある。左側に雲水堂、鄮峰草堂、拾翠楼祖師殿、承恩堂、住職殿、宸奎閣、寮屋など361軒、右側に松光堂、鐘楼、舎利殿、先覚堂、大悲閣など264軒ある。

舎利殿は1678年に造られ、檐が連がり、黄色の瑠璃瓦は屋根をかぶせる。石で彫刻される舎利塔の塔亭に七宝が嵌めてある。塔は青色で四角五階の外観、四方とも窓をつけ、一階ごとに神仏像が彫ってある。宝磬が内のてっぺんにひっかけ、寺の宝物とする仏舎利がその中に掛かっている。寺後の壁の「四天王」という石彫と仏堂両側の壁にある「十六王子」というレンガの彫り物が本物そっくりで姿勢が豊かである。それゆえ、多くの観光客と仏教徒を引き寄せている。

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